- 2009-08-18 (火) 22:36
- ほんとだすらい
お盆の時期は妻と実家で過ごした。
今年は母の初盆だからだ。
妻は7月に入った頃から、この準備を始めていたので、
2ヶ月弱の日々の大半を、先祖供養に費やしたことになる。
私の実家は小さな漁村にある。
高校卒業後、大学に進学した頃より、この地域とは疎遠になっていた。
転職し、また転勤し、実家から職場に通っていた時期も、片道1時間以上かかる通勤をしていたので、
実家とは、寝るためだけの建物で、仕事に逃げていたため、地域の行事に参加することは皆無であった。
この地域社会との関わりは、全て母が行っており、実家を離れた転勤後はさらに距離が広がっていった。
母は、約3ヶ月の闘病の末に他界した。
7年前に父が亡くなり、今年は母が亡くなり、実家には誰もいなくなった。
近隣の人たちは、今年になって、母の姿を見なくなった事を気にしていたようだが、私達(妻と私)が実家にいないので、母の近況を知る術もなく、亡くなったことは新聞のお悔やみ欄で知った人がほとんどであった。
葬儀の後、実家にて雑事をこなしていると、知らなくて葬式に参列できなくて申し訳なかった、と会う人毎にお悔やみを伝えられ、こちらが心苦しい限りであった。
私の実家で行う初盆の行事は、地域をあげて行われる。
漁港の市場にて、その年に初盆を迎える新仏の祭壇を設けて、位牌や遺影、灯籠を飾り付ける。
中心部では、まさに盆踊りが披露され、年に1度帰ってくるとされる仏の魂を慰めている。
我々新仏の家族は、この催しのために7月の中旬から準備に取りかかる。
公民館にて開催される打ち合わせを皮切りに、当日早朝(6:00am)には、15m位の笹の切り出し(5本)、その笹の各枝には、踊り子の慰労のためのタオルや団扇を、ところ狭しと飾り付ける。
同時に、施設が漁港の市場であるため、まずは両側面をブルーシートで覆う事から始まる。
これは、市場の支柱に張ったワイヤーににシートを結びつけ、風でなびかないように、下端1m毎に10kg以上の重りを置く。
今年は、強風だったため、いつも以上に重りを増加させたようだった。
前述の祭壇のためには、まずテーブルを設置する。
灯籠や電灯のための電気の配線を施し、各家庭が持参した白布で整える。
その他、和太鼓の設置や音響設備など、地域行事とはいえ結構な段取りがある。
19:00から盆踊りが催され、その頃には白熱灯の穏やかな光と、ずらりと並んだ光輝く灯籠や蝋燭が風に揺れ、母の遺影を照らしていた。
子供の頃、私は近所で、いずーちゃんと呼ばれていた。
いずーちゃん、一緒にこれ持ってきてくれるか?
いずーちゃん、手が空いとったらこのトラックで公民館まできて、椅子を運んでくれるか?
いずーちゃん、今日は、もうええよ。
何十年も会ってない人々であるが、殆どの人が知っている人ばかりなのだ。
当初はしんどいけど、母のために、頑張ってつき合わないといけないんだ、って自分を騙しながら参加したこの行事であったが、地元のみなさんは、僕達(僕と妻)を快く迎え入れてくれた。
知らない土地で、ご近所様と仲良くするのとは全く異質の感覚であった。
何年も住んでない、何十年も関わりがなかったから分からなかったが、僕の生まれ故郷は、これらの行事を中心に、人々の関係を強く結びつけていたようだ。
それは、代々受け継がれていく魂なのだと実感した。
更に、この関係に身を委ねることの心地よさも感じることができた。
翌日、後片づけをする妻のとなりのおばちゃんが言ったそうだ。
「私はこのために、京都から帰ってきたのよ」
ここには、危機管理も、品質保証も、法令遵守も、内部統制も、そんな気負ったものは何もない。
協同する社会が存在し、各人が手を取り合って生きているのた。
地域行事の準備や後片づけで、これほどに居心地よく感じたことはない。
故郷とはそんな存在なのかもしれない。
「みなさん、お世話になりました、ありがとうございました」
後片づけの終わった時、無意識のうちに発せられた言葉であった。
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