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親父の言葉と戦闘機

愛媛新聞 H18.8.13朝刊のスキャン画像

「紫電改」という、旧日本海軍の戦闘機について少しお付き合い下さい。
平成18年8月13日の愛媛新聞、朝刊に掲載された、

「もの言わぬ語り部-県内戦後61年(5)」

の記事を引用いたします。

この記事にある「上の写真」は、海中で発見され、引き上げられた直後の「紫電改」です。
この機体は現存する唯一のものであり、引き上げられた海域を臨む事ができる
馬瀬山の山頂に今も展示されています。
引き上げられたのは1979年で、当時小学生だった僕にとって戦闘機は、「かっこいい憧れ」でした。
友達に借りて読んだ「紫電改のタカ(ちばてつや著 講談社)」という漫画でも、
活躍する主人公や紫電改に憧れていたものです。
引き上げ後、馬瀬山山頂公園の展示室にて一般公開され、この眼でその飛行機を見ました。
真っ赤な錆が機体の一面を覆っており、至る所にフジツボ等が付着しています。
長い間(34年間)暗い海の底にあったことが子供の僕にも理解できました。
ただ、全く理解できなかったのは、機体にある無数の穴でした。
当時の記憶で、直径2~3cmくらいの無数の穴が、翼や操縦席付近に規則正しく並んで開いているのです。
その時は本当に意味がわかりませんでした。
家に帰って親父にそのことを聞いてみたのですが、その回答は僕の想像を遙かに超えるものでした。
僕「なんで、あんな所に穴あけるん?」
父「相手の飛行機の撃った弾の跡よ」
父「その弾に当たって、落とされたのとちがうか?」
父「ワシが子供の時、海に落ちていく飛行機を何度か見たことがある」
父「馬瀬山の飛行機は、その中の一つかもしれんね」
僕「・・・・」
初めて戦闘機や、兵器、戦争に対して違和感を覚えました。
機銃のあとが操縦席付近にあると言うことは、
当然、操縦士にも当たっているかもしれないと言うことは容易に想像できました。
勇猛果敢に敵機と戦う戦闘機のイメージが脆く感じられ、リアルに戦争の怖さを感じました。
また、赤茶けた機体をみた、どこかのおばさんが、
「長い間海の中で、冷たかったやろね」
と呟いていたことも、いまだに心に残っています。
この機体を操縦されていた方は被弾して、海に落ちるまでどういう気持ちだったでしょう?
残念ながらご遺体は機体付近には見あたらないまま引き上げ作業は終了していました。
現在は、記事の「下の写真」の通り、錆やフジツボは取り除かれて、現役当時のペイントが施されています。
ただ、海面に衝突した際に曲がったプロペラは引き上げ当時のままです。
今となってはアナウンスされることもなく、人の記憶もだいぶ薄れていると思いますが、
この紫電改が引き上げられた瞬間に、報道していた航空機が同海域に墜落してしまいました。
ここに改めて、ご冥福をお祈り致します。
第二次大戦が終結して、61年。
当時の戦争を体験された方々もずいぶん少なくなっています。
戦時中の厳しさや、辛さ、貧しさ、について語ってくれた父もすでにいません。
世界では、未だ平和が保たれず各地の悲惨な報道を耳にします。
人が人を殺める戦争という過ちははもう二度と起こすべきではありません。
昨日は、父の墓前に手を合わせながら、こんな子供の頃の自分を思い出していました。

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